萌えと価値(上の続き)

先ほどの議論を踏まえて、「萌え」について考えてみます。


「萌え」というものに厳密な定義が存在するわけではありませんが、「萌える―萌えない」や「萌え―萎え」のように物事を分類することができることを見ると、萌えは一種の価値判断であることにおそらく異論はないでしょう。ある事象に萌えるということは、その事象に何らかの価値を見出していると言い換えられるはずです。

ただし、萌えに付随する価値は上で議論した共同幻想による価値とは色合いが違ってきます。まず第一に、「みんなが○○に萌えているから自分も萌えよう」というのはほぼ確実に成立しません。反対に、「○○に萌えるのなんかおかしい」とみんなが言ったところで萌えている本人を論駁できるとは到底思えません*1

さらに、「萌え」という語を多用するのはオタク層であり、オタクに対する社会的な視線のベクトルを考えると、「周囲からの見た目を考えて何かに萌える」ということも通常考えられません*2。また、萌えにより経済的に何かが得られるわけでもありません。そもそも根本的に、「なぜ萌える?」と聞かれても具体的な理由が分かるケースは希で、ましてや何らかの意図を持って萌えることなど考えられません。

以上のことを総合して考えると、萌えに見出す価値というものは、社会にそれを支える仕組みが何も存在しないことになります。「価値は社会全体による幻想である」という文は成り立たなくなります。この文は2要素でできていますので、少なくとも一方は誤りです。

まず先に、「幻想である」方を否定してみますと、「萌えには本質的に価値がある」ということになります。本質的に価値があるものの例としては食料や水がありますが、これらについて価値を否定する人は通常いません。一方の萌えですが、上にも書いたように異論だらけで、両者は全く別物であると考えられます。よって、後半は真であると結論付けられます。

そうして、前半を否定した「萌えに伴う価値は個人的な幻想である」という結論が得られます。これは今までの社会システムにとっては一大事かもしれません。萌えに対しては社会的に何らかの雰囲気を形成して人々を導くという手法は通用しないのですから。

これからも不定期に萌えについて考えていこうかと思います。駄文を延々お読みいただきありがとうございました。

*1:僕の「オタク萌え」に関してもこの通りです

*2:だからといって、「オタクであることを自己主張するために萌える」というのも目にしません。