「E電」に想う

「E電」の表記が残る看板

今日はなんとなく渋谷から東横線で横浜に行ってみましたが、帰りのことを何も考えずに着いてしまいました。そこで、特急で京急蒲田まで移動して、歩いて蒲田駅から帰ることにしました。
京急線はまだまだ地平区間が多かったのですが、民家の脇を走る区間も多く、軌道上がりの歴史を見せつけてくれました。例によってダイヤもすさまじく、特急から降りた3分後に普通が来るのですが、その間に回送が挟まっていました。


蒲田駅でなんとなく案内表示を見てみると、「E電・東京急行のりば」と書いてありました。「E電」という言葉はJR発足時に、国電の言いかえとして誕生した言葉ですが、ほとんど死語となってしまいました*1。死語となった原因としては、JRのPR不足もあるかもしれませんが、もう一つ根本的な問題があります。

東京の国鉄では、「通勤五方面作戦」といって幹線の複々線化を進めましたが、その際に工期や費用の都合で線路別複々線を選択したため、近郊を走る「国電」(=電車)とそれより遠くまで走る「中電」(=列車)という2種類に分かれてしまったわけです。国電は4ドアでロングシート、中電は3ドアのボックス席と内装も違っていました。

もちろん物事には例外がつきもので、例えば常磐線では、交直セクションの関係で中距離電車があまり増やせないので、快速線の側に「国電」を走らせています。

中央線では戦前に中野までの複々線化が完成していた上、周辺の都市化が早かったため、「国電」が快速線でも使われるようになり、ここをもともと走っていた「中電」が次第に追い出され、現在では完全に電車路線となっています。

中央線ではこの進行が早かったのですが、ほかの路線でもバブル期頃から市街地化が進んだ結果、ボックス席では乗客をさばけなくなりロングシート化していきました。逆に、四角かった電車の側も少しでも定員を増やすため断面を広げ、両者の違いは減っていきました。

その頃民営化が起こったので、乗客からすれば「どっちも同じ電車じゃないか」ということで、都市部の電車だけ「E電」と呼び分ける需要がなかったと考えられます。

一方、関西では新快速と各駅停車で設備も内装も違う車両が走っていますが、この新快速は列車ではなく電車の系列です。中央線と同様、関西でも戦前は急行電車が走っていましたが、電車による急行列車ができたため「快速」と改称、さらには上位種別としての新快速が生まれ、圧倒的な利便性と民営化後の戦略で列車は追い出され、電車だけで多様な列車群となっていったわけです。ここで注目すべきことは、関西では新快速が外側線に進出した時点で、両者が1つのネットワークとなったということです。

その結果、JR西日本では電車と列車を分けるなどということはなく、路線全体に「アーバンネットワーク」という呼び名をつけ、これはかなり普及しています。

*1:部内では使われているようです。